午前中、永井荷風(1879.12.3 - 1959.4.30 )の「
花火」(大正8年/1919年/「改造」初出)を再読。
どうしてボクはこの作品が気になるんだろう。
文学史的にいえばこの作品は、荷風が明治44年(1911年)慶応大学の教授として在職中に通勤途中の市谷で〝大逆事件〟に関与した囚人を乗せた馬車を目撃した際に、「自ら文学者たることについて甚だしき羞恥を感じた。以来わたしは自分の芸術の品位を江戸戯作者のなした程度まで引き下げるに敷く如(し)くはないと思案した。」という荷風のマニュフェストとして知られているとのことだ。
ところで、帝国主義の要件とは、世界に伍して戦争ができる力、平たくいえば植民地を拡大するために世界とケンカができる水準に国力を引き上げることだとすれば、この作品は、これが書かれるまでの時点の(第1次世界大戦終結後)、日本が近代化=帝国主義化していくまでの明治・大正期のさまざまな騒擾を、荷風の幼少期からの回想という形で記している。
乱暴ないい方でいえば、必然的かつ犠牲的に騒擾を引き起こさざるを得ない帝国主義(戦争による植民地拡大主義とそれに伴う資本主義的矛盾との相克)の前で、文学者たる荷風は白旗を上げているのである。
それゆえに「花火」というタイトルは、何やら力なく弱々しく悲哀に満ちたトーンになるのだ。
荷風は、第1次世界大戦(1914年~1918年)終結後、1919年(大正8年)の戦争講和記念祭(パリ講和条約)の当日、梅雨もようやく明けようとした日に、昼食の箸を取ろうとしたとき、ポンとどこかで花火の音を聞いたのだった。
夜空に打ちあがる大輪の花火ではない。
昼間の花火である。しかも音だけを聞いたのだ。
〝大逆事件〟の囚人馬車を目にした時の文学者としての無力感を象徴する「花火」。
自らを世情から遠景に置いた荷風自身こそが、遠くで聞こえる「花火」だったのではあるまいか。
文学史的には個人主義といわれる荷風のアティテュードも、やっぱり、逃げを感じさせては説得力がないよね。どこかひ弱さを拭い切れないのさ。
そこがボクには一番気になるんだろうな。たぶん。
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午後、中野「まんだらけ」をめざして歩き出す。
途中、「アニマル洋子」で、
■レコード・コレクターズ/カントリー・ロック 60年代に誕生したヒッピー世代のルーツ・ミュー ジック(1998年/10月号)
■レコード・コレクターズ/スウィンギング・ロンドンの狂騒(2000年/11月号)
買う。
中野到着。「まんだらけ」では、
■コミック昭和史 (第8巻) 高度成長以降 (水木しげる/講談社文庫/2005年版)
■マンガ大学院(上)(下)(赤塚不二夫/集英社文庫/1976年)
■蛍三七子(ちばてつや/ちばてつや漫画文庫/講談社/1977年)
■群竜伝/全4巻(本宮ひろし/講談社コミックス/講談社/1973年)
を買った。
群竜伝/全4巻揃いで630円は「まんだらけ」では超良心価格でなないだろうか。買い得だったよ。
蛍三七子(1972年9月、週刊少年マガジン)は、本誌掲載中に読んだことがボクの自慢なのだ。2回連載ではなかったか。ちばてつやの画力は、主人公の飛田三七子のクールさを極限で吊り上げている。お人よしのもう一人の主人公、浩が時折見せるクールな表情。
当時、週刊少年マガジンに連載中だった「あしたのジョー」の矢吹ジョーの見せるクールさを、この作品の両方のキャラクター(三七子と浩)が両極で引っ張りあっている。
絵は最高水準にあり、ストーリーがこれに高品位で追いついている。
いつ読んでもいい作品だ。