パン屋で販売の仕事に就いてよかったことといえば、日銭商売の機微を体で理解できたことである。ボクがやっていたのは、パンを作る方ではなく、焼きたての無添加パンを車に積んでの「行商」の仕事である。月・水コース、火・金コース、木・土コースといった具合で、コースを3つに分けて1日おきに同じ場所を回った。
「行商」をしてわかったのは、売れる日と売れない日があるということだ。
よく売れる日は、何があっても売れる。昼休みに車の中でお昼を食べている時でさえ、お客さんがパンを売って欲しいと運転席まで顔を出してくださるのだ。
ところが、売れない日というのはトコトン売れない。何をどうやったって売れやしない。自分のどこかに何か重大な非があるのではないかと、疑心暗鬼に陥ってしまうのだ。つい、2日前に行った同じ時間帯、同じ場所で、まっったく売れないことが起こってしまうのである。
なぜか。
なぜかといわれても、それがどうやら「商売」というものの実相らしいのだ。
ボクを雇ったパン屋のオヤジはいったものだ。「売れた売れないで一喜一憂してたらダメだ」と。
また、オヤジはこうもいった。
「商売というものは、薄紙を1枚1枚重ねていくようなものだ。1枚1枚は薄い紙だが、重なれば動かしてもビクともしなくなる」
確かにそのとおりのことを感じたのだった。
20ヶ月、雨の日も風の日も台風の日も炎天下でも雪の日も、日曜日以外は1日も休まず、12,000人に手売りで無添加パンを売り続けたボクの実感は、こういったフレーズに集約さる。
「商売の要諦は自分に負けないことに尽きる。敵は自分である」
仕事をしていた西荻窪は生活をする人の町だった。
それまでは、仕事といえばネクタイを締め、アウシュビッツもかくやと思われる満員電車にギュー詰めになって職場に行き、机に座ってのいわゆるデスク・ワーク。職場の周りはオフィス・ビル中心で、買い物をする主婦の姿など、仕事中にはついぞ見かけたことなどなかった。
肉屋があり、八百屋があり、魚屋があり、ラーメン屋があり、スーパーがあり、本屋があり、弁当屋があり・・・
人が生活する空間とはこういうことなのか、とあらためて不思議な感じがしたものだ。
漫画でしか知らない「もーれつア太郎」の記号的な庶民世界が現実化した時空間を、はじめて
わが身で体験したのだった。