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キクヤパン店のこと

d0002395_239326.jpg 職場近くの台東区4丁目御徒町公園隣のキクヤパン店は素敵なパン店だ。銅葺きの建物はよき昭和時代のたたずまい。 
 これで商売が成り立つのだろうか、とこちらが心配になるほど品数は少ない。かつてのソヴィエト連邦共和国の店を髣髴とさせる品揃えだ。店の奥に店主とおぼしき老人の影。
 銀行がつぶれるようなこのご時世に、きっと明日もお店をあけるだろうというロックンロールなお店なのだ。
 ここに匹敵する、というよりもここを凌駕する品数の少なさで勝負するパン店が、中野区大和町にある。まさにその姿勢はパンク!!いずれその店の写真はお見せします。
 そこの近くには、『カンガルーマンション グレートデン』などという脳味噌がメルトダウンしそうなネーミングのマンションもあって、なかなか狂った素敵な土地柄なのである。
by mimiokun3 | 2005-03-27 23:28

チャラリ~マンの父から息子へのしょっぱい人生ログ

 いったん辞め癖のついた人間は、その後の人生はローリング・ストーンな人生を送ることになるらしいよ・・・。
 このボクがそうなんです。
by mimiokun3 | 2005-03-27 21:13 | チャラリ~マンの父から

ジョブ・ホッパー(転職人)ミミオくんはその時(2)

 1995年3月20日、K同印刷在職時に、通勤線の丸の内線で〝地下鉄サリン事件〟は起きた。出社してしばらくして、職場で何か事件が起きたらしいといううわさが流れた。
 その頃、ボクは完全に仕事に行き詰っていて退職を決意していた。w事業部長に「ジョブ・ホッピングは3回までにしておけよ」といわれたものだが、ボクはそのいいつけが守れずに、いまの仕事に就くまでにあと5回の転職を繰り返すことになる。先日、K同印刷のHPを見たら、w事業部長は偉い取締役になっておられた。その年の4月に、ボクは元いた会社に出戻った。
 しかし、その会社も5年後の2000年の9月には退社することになる。2000年3月8日には、地下鉄日比谷線の中目黒駅での脱線事故が起きた。会社の屋上から、事故現場が目撃出来た。
 仕事を辞めることになった年の3月に、大きい地下鉄関連の事故に2度遭遇している。2度目は厄年の出来事だった。その後今日まで、厄が落ちていないようだ・・・。
  
 
by mimiokun3 | 2005-03-27 21:04

漫画天国

 自宅近くのゴミ捨て場で100冊を超える70年代漫画の大量投棄あり。山上たつひこ〝光る風〟朝日ソノラマ版初版、①②③の全巻揃いなども。『まんだらけ』なら12,000円くらいでボッタくられるだろう。(後の調査で、3,000円くらいで売られていることがわかった)d0002395_2024019.jpg 
d0002395_2026357.jpg
  
 他に、佐藤まさあき〝野望〟、芳谷圭児〝アイドール女優〟、篠原とおる〝さそり〟〝0課の女〟、影丸穣也〝ワル〟などの鋭いラインナップ。よほどの目利きの漫画読みと見た。しかし、その人の書棚から、30年を経たいまこれらの問題作が投棄される理由は何なのだろうか。 
 20年前、新婚当初住んでいた小石川のマンション前では、1960年代前半の懐かしの『少年サンデー』や『少年マガジン』が棄てられていたことがある。
 東京は本を棄てる人が住んでいるまちである。これは、ボクが住んでいた田舎では考えられないことだった。
                                                         
by mimiokun3 | 2005-03-27 20:37

そがれのジョブ・ホッパー(転職人)ミミオくんとして生きる(2)

 わが屋台の『お品書き』は以下のものである。

①『自分遺産』(ミミオくんももうすぐ50歳。まさに自己の遺産の記録として…)
1) 小三~小六(1966~1968)に描いた懐かしの少年マンガの模写の再録とマニアとしての
   メッセージ。
   さいとうたかをの公式HPでも登場しないキャラの本邦初公開画像とtextなど。
  2)大学1年当時のオリジナルマンガ作品の講評記事の再録とtext。
  3)1987~1988年頃のマンガ原作作品の講評記事の再録とtext。
  4)バーニー・カルロス(チープトリック)からの手紙とtext。
  5)大橋 歩さん(イラストレーター)からの手紙とtext。
  6)幻のフリーペーパー『SALE2』出稿の個人広告とtext。
  7)小1の日記とtext。
  などなどの超個人的なメモリアル・アイテムの盛り合わせ。ミミオくんのバイオグラフィー。
        
②『東京写真』
 1996~2002までにカメラに収めた厳選東京、約20カットとtext。極私的東京論。
 (残念ながら35mmポジフィルムのスキャニングのスキルがなく、いまだアップならず。GW頃  にはなんとかしたいものだ!!)              

③『良質写真工房』
  出身ラボの㈱イーストウエストを協力会社として、いまも続けるわがライフワーク。
  写真展用プリント制作の仕事の商用ベースのページ。過去の仕事の紹介など。
  受注窓口として。
  附録/がんばらない写真の取り方教室。(案)
                       
④『Rock Essencials File』
  生活のために大切なレコード、CDはすべて売り払ってしまったが、魂までは売り払ったわけ  ではないゼ。
  「ROCK版 わが闘争」。記憶化、細胞化したROCKアルバム(洋楽・邦楽)30選(仮)。
  ジャケ写とコアなtext。
  中心となる思想 : 【過去とは未来のことである】
  (残念ながらこれもジャケの画像アップが出来なくて・・・。なんとかしたいものです)

⑤『チャラリ~マンの父から息子へのしょっぱい人生ログ』
  自分を養い、自分のお世話をすることだけでいっぱいいっぱいだったミミオくんももうすぐ50  歳。勝手に育ってくれたと思った大学生の息子は、人に云わせれば奥さんがエラかったせい  だとか。
  エッ!?そうなの!?
  妻と子に感謝です。我ながら頼りない自分。これまで生きて来れたのはむしろ奇蹟!?
  「さすらいのジョブ・ホッパー(転職人)」ミミオくんの、迷いに満ちたなかなかしょっぱい懺悔 
  録。

⑥ルポライター石飛 仁氏と共に活動を始めた『古代出雲を感じる会』の活動報告ログ。
 出雲民族としてのわが出自を照らす氏の近著『蘇れ古代出雲よ』は、5月刊行、6月全国発 
 売。(新泉社刊/東京本郷)
 11月には、『古代出雲を感じるツアー』を実施します!!
 テーマ:東京発~古代出雲経由~韓半島乗換~東アジア着
以上ッス!! 押忍!!
by mimiokun3 | 2005-03-23 21:50

そがれのジョブ・ホッパー(転職人)ミミオくんとして生きる(1)

 このブログのタイトルを『たそがれのジョブ・ホッパー(転職人)ミミオくんの屋台』という。
屋台を引くのはこのボク、ミミオくん、もうすぐ50歳である。(正確にはこの3月の30日で47歳。もうすぐ誕生日だ。別にめでたくはない。妹にいわせれば、誕生日はリセットの日なんだそうだ。そういえば以前、ある雑誌でアメリカのベビー・ブーマーの老後特集があって、50歳を迎えるあるオヤジが、誕生日が来たらタトゥーを入れるんだ、という記事を読んで、それもありかな・・・とふと思ったものだ)
 ちなみにミミオくんというのは、本名のファーストネームの読み方を変えたものなのだ。
 このキャラが立ったのは、去年の9月のことである。あるメーリングリストに参加するために急にハンドル・ネームが必要になり、その時にやむを得ず、といった塩梅(あんばい)で考えついた名前でる。
 同時にそのころ読んでいたある本で、本を書いたりメールマガジンを発行するには自分を一言で表現できるキャッチフレーズが最重要であることを教えられていたので、自分のキャッチは何かな、とずっと考えていたのである。
 ところで、小池一夫の〝劇画村塾〟的な考え方でいえば、〝キャラが立つ〟というのが漫画原作では最重要事項なのであるが、長いことボクはこのことが実感として理解できなかった。
 20年前に賞金に目のくらんだボクは、少年ジャンプと少年マガジンの募集する漫画原作募集に投稿して、そのいずれにも佳作に入って5万円づつの賞金を手にしてほくそえんだ経験はあるのだが、結局この〝キャラが立つ〟あるいは〝キャラを立てる〟ということが実感できなかったために、その後漫画原作の実作者として世に出る夢ははかなく消え去ってしまった。後が続かなかったのである。
 少年マガジンでは一応担当者がつき、原稿が出来ると小石川の自宅から音羽の講談社まで自転車で出掛けて、何度か読んでもらったが、担当者の考えるストーリーの方がボクのものよりよっぽど面白かった。彼らは編集者(エディター)というよりはマーケッターに近い存在だと感じたのだった。
 この頃の少年ジャンプの発行部数は600万部ではなかったか。この数字そのものがほとんど狂気の沙汰である。しかも毎週の発行だ。印刷は、その頃働いていたK同印刷が、小石川工場内で輪転機を回し狂っていたのだった。
 それから今日に至るまで、漫画原作は習作を何本か書き、何本かを投稿したが反応はなかった。キャラが立たなかったのである。

 唐突だが、去年の9月、5度目の転職と6度目の転職の谷間の2週間でボクは解脱した。きっかけは、ある手法で自分のそれまでの人生を棚卸しして、自分の弱さを素直に受け入れたからだった。成功を望んで成功から最も遠い所にいる自分、経済的にも底辺にいる今の自分を認め、むしろ弱い、この取り柄のない自分を容認して〝売り〟にしようと考えると、1981年から今年までの24年間に、7度の転職(ジョブ・ホッピング)を繰り返しているボクというキャラが(ついに!)立ったのだ。
 迷いつづけながら生きる自分、我ながら頼りないよな47歳。「いろんなことが出来るんですね」という人もあるが、何も出来ないで迷いつづけているだけなのだった。でも・・・それは〝売り〟なんじゃないか。不景気なこの10年の間にそれだけの数の転職を繰り返しても職にありつけるのは、これはもう〝プロ〟なんじゃないかと気づいたのだ。
 創作で立てることが出来なかったキャラは、ブログという屋台を得て、自分の分身=ミミオくんとしてWeb上でやっと立った。                               (この項つづく)
by mimiokun3 | 2005-03-23 20:04

気になって仕方がない東海林さだお

 東海林さだおのことが気になって仕方がないのはいつ頃からだろうか?
 手元に取ってある『週刊現代』連載の〝サラリーマン専科〟2004年12月18日号では、オフィスにおいてあるパソコンがディスプレイとキーボードだけで、マウスが描かれていなかったのだ。しかもLANケーブルなどの配線が一切描かれておらず、いったいどうしたんだ!?という思いにとらわれてしまったのである。きっと、その頃からだと思うな。d0002395_18265258.jpg
 で、オフィス風景の記号としてのパソコンの配置、というお約束だとしても、配線されないパソコンはありえねーだろ。たぶんこの人は漫画家としての観察力というか集中力というか執念のようなものがもう衰えてしまったのではないか、とボクは考えたのっだった。
 いったいこの人はいまいくつになるかというと、昭和12年(1937)生まれということなので、今年68歳だ。たまたま目にした『小説新潮』2004年6月号の赤瀬川原平との対談時の写真では、もうすっかりお爺さんになっていたのである。
 ちなみに、その『週刊現代』の連載は1755回(!!)だった。
 その直後に気づいたのは、『週刊文春』では、〝タンマくん〟が2004年12月23日号で1761回を数えていたのだ。
 月4回の連載が12ヶ月で1年48回連載。1755回割る48回で・・・エーッ!!30数年も経ってるじゃん!!
 それに加えて毎日新聞では〝アサッテくん〟が軽く1万回は越えているので、こちらも連載30年以上ということになる。
 いつも行く地元高円寺ルック商店街の古本屋の店先の100円本の棚で今年2月頃見つけたのは、筑摩書房刊『現代漫画シリーズ11 東海林さだお集』だった。第一刷は1969年11月20日だ。
 それによると、
 〝タンマくん〟(週刊文春連載中・1968年1月~)
 〝サラリーマン専科〟(週刊現代連載中・1969年1月~)
 となっている。
 この人は休まず30数年同じ漫画を描き続けている・・・。サラリーマンよりサラリーマン的な自由業者である。恐ろしいことだ。
 〝サラリーマン専科〟は中学生の頃、親父が買っていた『週刊現代』に載っていたのは覚えている。『週刊文春』の連載については全然意識していなかったなぁ。
 それにしても、もう描線はヘロヘロだ。お爺さんだものな。ついでながら、ちばてつやも同じくらいの歳になるのではないか。いまどき、ちばの描く〝あしたのジョー〟には、もう連載時の神がかった美しさや切れはない。絶望的に、ない。悲惨といっていいほど、ないのである。こちらの描線もヘロヘロなんである。
 画力の衰えた漫画家ってみじめだなぁ~。
 早大漫研の同期だった園山俊二(1935.4.23~1993.1.20)も福地抱介(1937.6.1~1995.1.5)もすでに鬼籍に入ってはや10年以上が過ぎている。
 東海林さだお、もういつ逝っても悔いはないんじゃないか!?(オレが言っていいのか。ナンシー関風だが。)
参考ページ
http://homepage.mac.com/mizuguti/fake/sadao.html
d0002395_18282820.jpgちなみに、その後に入手した『ビッグコミック』4.10号の柴門ふみの〝小早川伸木の恋〟では、パソコンはきちんと結線されている。さすが、というよりも漫画家が現代を描くというのは、ここまでやってはじめてお足をちょうだい出来るのである。
 
 
by mimiokun3 | 2005-03-21 23:19

いま息子が2階から降りてきた。

d0002395_0102192.jpg いま息子が2階から降りてきた。
 野球のユニフォームに着替えて、バイクで草野球に行くところだ。
 彼は家にある2台のパソコンに触れようともしない。めんどくさいらしいのだが。
 いまやパソコンを事務所で使えないと、社会に出て仕事ができない時代になっている事は前から伝えていた。来年は部活でパソコンに向かうというので安心した。
 仕事で苦労したキミの父親(ボク)が、自分のやってきた失敗や苦労をこのログに残しておくので、失敗しないで上手に生きていくためにこのブログを読むように伝えておいた。わりあいに素直に育ってくれた子なので、いちおう「わかった」といって、いま出掛けては行ったのだが・・・。
今月の30日でボクが47歳。息子が19歳。結婚生活は20年目を迎えた。
 自分の父親とまったく同じ年齢パターンで、ボクも自分の人生を生きている。
 (ちなみに、ボクは息子になぜ奥さん(つまり彼の母親)と結婚したか、その理由も前にちゃんと伝えておいた)
  K同印刷での10年前に、仕事が出来ずに苦しんでいた最中絶えず思っていたのは、「こんな苦しい状況の中で親父だったらどんなやり方でこの場を凌いでいただろう・・・!!」という思いだった。
 苦しみから脱出するための知識としての人生ノウハウ本のコトバではなく、生きて仕事をしてきた、いわば社会人の先輩である父親の肉親としての〝生きるための知恵〟を教えてほしいと痛切に思っていたのだった。
 1977年に(この年パンク元年!!)19歳で大学生活を始めるために島根県松江市から上京して一人暮らしを始めた。以来、長いこと父親とは離れて暮らしていたるので、そんな知恵を身近に教えてもらえる機会はなかった、というのは体のいいいい訳で、同居していても多分ボクはそんなことは聞かなかっただろうな・・・。(この父親にはボクはずっとアンビバレンツな想いを抱いて今日まで親子関係を続けている。彼はそのことに気づいているだろうか。なにしろ二言目には〝ガンバレや〟というこの父親のこの一言はいまでもボクの一番のアンチスローガンなのだ)
 ガンバってはいけないのである。ガンバルというコトバの中に潜んでいるマイナスイメージの危険に気づいている人がこの国にはあまりに少な過ぎるのだ。
 うつ病の患者に一番いってはいけないコトバが「ガンバレ」なのである。
 ところで、リクルートの出しているフリーペーパー『R25』の2004年8月発行のNo.8のインタビューは吉川晃司氏で、そのインタビュー記事の最後はこう締めくくられていた。
 (彼は渡辺プロダクションを経て、今や自分のマネージメント会社の社長なのだ!)
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 奮闘する吉川に客席から「頑張れぇ」という声援が何回も飛んだ。
すると吉川はこう言い返したのだった。
「頑張れ、言うな」
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やるな!広島県人!!

 というわけで、今後『チャラリ~マンの父から息子へのしょっぱい人生ログ』のタイトルでは、数年後社会人になる息子のために、人生ログを残すことにします。
 ブログ、スゲェ~。
 ボクは石原裕次郎の〝夜霧よ今夜もありがとう〟という歌をいつも、ナゼか〝メディアよ今夜もありがとう〟と読み替えて解釈してきた。
 いままさにその時代がきた感じがする。自メディアとしてのブログ。自らのメディアを持てていることの自負と歓び。
 経済では、人間の尊厳の復権は出来ないと前に述べたが、ブログの照らすメディア力で、ボクは〝民族を意識するアティテュード〟のことを、今後少しずつ別タイトルのログでお伝えする予定でもある。
 ログタイトルは『感じる古代出雲』にしようかな。
 上京して以来、空洞化していた自分の人生、裏でうっすらと走っていた自殺願望のプログラムの正体のひとつに、失われた自分の出自、民族としての出自というものがあり、そのプログラム
を打ち消す契機となった、石飛 仁さんの本『蘇れ古代出雲よ』と氏と一緒に活動を開始した『古代出雲を感じる会』のことについても、すこしずつログを積み重ねていく予定である。
 テーマは、〝東京発、古代出雲経由、韓半島乗換えの東アジア〟といったところだろうか。
 
by mimiokun3 | 2005-03-21 13:33

ジョブ・ホッパー(転職人)ミミオくんはその時(1)

 10年前のきょう(3/20)、地下鉄サリン事件が起きた。
 その頃ボクは2度目の転職先の、小石川にあるK同印刷という印刷所の商業印刷事業部で営業をしていた。入社して5年目。数年前にバブルがはじけ売り上げが落ち、既存得意先だけでは予算が達成できず、新規を取らないとどうにもならなくなっていた。Sポロビールが根幹得意先の課に配属され、ボクは主にその得意先のワイン部の仕事をしていた。
 低価格ワインの走りの「う●しいワイン」は、4社競合で新製品のネーミング提案も含めたプレゼンに参加して、プレゼンを通ってボクが関わったSポロビールの製品である。
 ノルマという嫌なコトバを無理やり目標と置き換え自分を納得させて仕事を続けていた時代である。それは、本に書いてあるような対蹠療法だったので、結局は自分を自分で誤魔化しているだけで、根本的にボクは自分を信用することが出来ないで生きていた。
 知識を使って問題を解決しようとしていただけで、生きるための知恵の蓄えがまったくなかった。それでは上手に生きていけないのである。
 その頃ボクは上手に生きていけたらどんなにいいか、上手に仕事をこなしていけたらどんなに幸せか、と思って生きていたような気がする。
 (思い出してきたぞ。)
 自分を自分で信用できるから自信というのだろうか。先日そのことを、いま一緒に古代出雲に関することで活動をしているルポライターの石飛 仁さんに話したら、「(そんな状態じゃあ敵と)闘えないじゃん!」と言下にいわれたものである。長い間、敵はボク自身の弱さだったのである。
 その状態は、実は去年の9月ごろまで延々と続いている状態なのだった。暗い通奏低音である。そういえば、10年前はずっと死にたい死にたいと思って生きていた。
 (また思い出した。)
 うっすらとした自殺願望が通奏低音のように、裏のプログラムで走っていた時代である。
 なぜ、死ななかったのだろう・・・。
 家族のことを考えると、やっぱりそれは出来ないことだったな。
 そういえば・・・そのうっすらとした自殺願望は中学の頃からずっと自分の裏のプログラムで走っていた気がする。
 (だんだん思い出してきたぞ。ブログは気づきの装置だっていうのは本当だ。)
 舌を噛み切ったら死ねるかな、でも痛いかな、なんて考えながら上下の歯でゆっくりと舌を噛んでみることをたまにしていたもの・・・。
 それにしても、気がつけばこの国はいつの間にか、毎年3万人以上の人間が自殺する国になっていた。20年位前でもコンスタントに2万人は自殺者を出していた国である。
 正しくこれを内戦状態というのではないのか。
 そのことに気づき、肝に銘じてこの国で生きる覚悟を決めている人間がどれだけいるというのだろうか。1945年の敗戦で、この国では「民族を意識して生きるというアティテュード」をシステム的に封殺され、経済活動だけが許される国に造りかえられてしまったので、60年かけてゆっくりじっくり壊れていったのでる。
 近代主義、資本主義の行きつく先は、所詮こんなもんである。
 多分、敗戦後、この国では途切れることなく毎年2万人から3万人が自殺していて、通算で500万人以上の人間が、気づかれることのな少ないこの〝静かな内戦〟で戦死しているのである。
 誰が悪いのか?
 キミとボクだろ。
 結局は。
 アティテュードはハッキリさせておこうよ。
 ボクは右翼でもなんでもないけど、民族を意識して生きるアティテュードというものを身に着ける教育をちゃんと受けていれば、自分にも人にも優しい強い人間になれたような気がする。
 みんながそうだろ。
 キミとボクがそうだろ。
 敗戦後、経済だけで生きてきた国の人間だから、結局経済の問題で苦労するハメになる。
 程度の低いカルマにつかれているんだよな~。 
 経済には、人間の誇りというか尊厳を復権させる力はないんだよ。
 キミは自分に自信があるから、外国人にも優しくなれる、民族を意識して生きるアティテュードというものを持ち合わせているかな?
 ボクにはないな。だからずっと自殺願望が消えなかったともいえる。
 自殺のことを書き始めたら止まらなくなったけど、もうひとつだけ書き留めておきたいことがある。
 まちで「あしなが基金」という自死遺児共同募金の子たちが募金箱を持って立っていたらボクは見捨てておけない。かならず500円を投ぜずにはいられない。
(かれらには自殺した肉親の死に様を「自殺」とは呼べない強い禁忌の意識がある。自死というコトバに封殺された万感の思いを感じないわけにはいかないのだ)
 ボクに善意があることを誇ろうというのではない。
 そこに立っている子たちのうちの一人がボクの息子でないとは決していい切れない国の、いいきれない時代にボクらは生きているから。ボクにはもっと切羽詰った事情があるのだ。

 話を元に戻す。
 結局、印刷業は自分には合わず、というよりは営業という仕事がそもそも自分には向いていないのだが、そうかといっててに職があるかというと何もないので、ツブシは利かない。 
 何もかもが悪い方へ悪い方へ回転していた10年前だ。
 悪循環とはこういうことかと身をもって味わっていた。どうあがいてもこのカルマが落とせないのだった。
 仕事はやってもやっても追いつかず、毎週日曜日に出社して仕事をこなしていた。日曜出勤者はボクの他にもレギュラーが数名いた。仕事の段取りが悪い社員たち、というよりは、一人当たりの仕事量が多すぎるのである。とくに印刷業の仕事量は、得意先によって大きく左右される。代理店担当だったらボクなんかとっくに死んでいただろうな。過労死か、仕事から逃げ切れずに追い詰められての自死。
 いや、やっぱりボクは仕事の仕方が下手だったな。能力が劣っていたと思う。
 印刷業に転職する前、世間で過労死が社会問題になっいたが、どんな仕事をすれば過労死になんかなるのだろうかと、自分では想像できない世界の出来事だった。
 まさか自分がそのことを身をもって味わう立場になろうとは。そうなると、逃げても逃げても問題からは逃げられない仕掛けになっていたのである。それが世の中の仕組みであるとは思えない。もっと違った外からの大きな悪い力が働いていたように思う。悪いカルマにつかれていたとしか思えない。
 転職したてに、その印刷会社の違う課で、ボクと同じ年代の先輩社員が過労死で亡くなったのには少なからずショックを覚えた。大手寿司チェーン担当の人だった。
 そんなわけで、平日も泊りの仕事が続いた。夜11時になっても仕事が終わらない。寝なければあした体が持たない。きょう着たままのズボンとワイシャツとネクタイで、会社の仮眠室のベッドにもぐりこむ。
 翌日、汗と脂で体が臭いのが自分でわかる。とくに頭の脂が髪中に回って、臭くなっているのがすごく嫌だ。
 朝、ほかの社員たちが出社して来る。彼らはちゃんとゆうべ家に帰って晩ご飯を食べ、風呂に入ってきたしあわせな人たちだ。
 きのうのズボンで、きのうのワイシャツとネクタイで、臭い体で得意先に商談に行く。上司のH本もボクを追い詰める。(「前の職場でちゃんとした仕事のやり方を教わってこなかったんだな」
と最初にいったのがこの男だった。ボクは1981年に社会人を始めて今年で24年になるけど、四半世紀の間に同じセリフをあと2人の人間からいわれることになる。もしかしてオレって欠陥人間!?)
                                 (長くなりすぎちゃったのでこの項つづく)
by mimiokun3 | 2005-03-20 19:34

知ってる店がだんだんなくなっていくね。

 永福町駅前のラーメン大勝軒の隣の肉屋さん〝肉の栄福〟がお店をやめちゃったみたいだ。
この駅を利用する時は必ずといっていいほどここに寄って、2個80円の煮卵を買うのが楽しみだったんだけどな~。
 きょうは家から自転車で下高井戸に行って、そこから世田谷線に乗って久しぶりに三軒茶屋に用事で出掛けた。世田谷線片道130円。こんなに安かったっけ!?キャロットタワーで見たい写真展があったんだけど、案外地味なつくりで少々期待はずれ。新聞に出てた記事はもうちょっと楽しそうだったのにね。
 そのあと口直しに茶沢通りにある古本屋で、コアな懐かしの漫画本でも冷やかして帰ろうかなと思ってその古本屋を探したが、なくなっていた。
 いまは客商売は本当にたいへんな時代になってきているらしいけど、古本屋もキツイ商売なのだろうか。阿佐ヶ谷のすずらん通りの青梅街道の近くにあった古本屋さんは2年前くらいに店をたたんでしまい、いまはファンシーショップになっている。おなじく阿佐ヶ谷のパールセンターの中にあった古本屋さんもいつの間にかなくなっていた。
 そういえば、この間恵比寿に用事がって出掛けた時、20数年前に働いていた職場近くの商店街を歩いてみたら、その頃、仕事の途中によくコロッケやメンチカツを買い食いした肉屋さんや、立ち読みをした本屋さんがなくなっていた。その近くにあったこ汚い恵比寿名物の焼鳥やはビルの中に入っていたが・・・。もしかしたら自社ビルなのか?

 それにしてもこのブログ、テキストだけで味気ない。写真を使いたいのだが、悲しいかな情報弱者のこのボクは、画像の扱いにまるでスキルがないのだ。
 はやくどうにかしたいと思っている。イライラがかなりつのっているのである。
by mimiokun3 | 2005-03-19 22:30